いまや中国ビジネスにも必須の知識となった中国近現代史。 その激動の歴史を詳細な解説と豊富な写真でバーチャル観光!
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近現代史史跡 華南

福建省

福州

林則徐紀念館

阿片戦争

阿片戦争の英雄林則徐の業績を記念して開設された歴史博物館。館内には、林則徐の座像が安置され、 詩文や書簡、上奏文など林則徐自身の手書き原稿が展示されている。また、 内庭には皇帝から下賜された聖旨や祭文を彫った碑が立っている。福州市内澳門路。市政府の近く。

【関連史跡】西湖公園の南側、楊橋路から通湖路にのぼったところに林則徐故居がある。

林則徐墓

阿片戦争

林則徐の墓。阿片戦争の英雄として有名な林則徐の晩年は、その業績に反して不遇だった。 阿片戦争開戦の責任を問われ、新疆のイリ(現、新疆自治区の伊寧)に左遷された林則徐は、 その後、雲貴(雲南・貴州省)総督に返り咲いたが、やがて病を得て退官。だが、翌年、太平天国の乱が勃発すると 再び皇帝の命が下り、その討伐を命じられた。しかし、病をおして現地へと赴く途中、潮州で死去した。 1850年10月19日のことだった。墓には、林則徐夫妻をはじめその父母および弟夫妻が合葬されている。 福州市北郊の馬鞍村、金獅山のふもとにある。

林文忠公読書処

阿片戦争

 林則徐の別荘跡。中華民国時代、阿片戦争の英雄林則徐にちなみ、禁煙亭が併設された(禁煙はアヘン禁止の意)。 市内西北の西湖の荷亭のかたわらにある。

馬江海戦記念館

洋務運動

 1884年8月、清国とフランスとの間で清仏戦争が勃発すると、ベトナム沖から北上したフランス艦隊は、 まず台湾を陥落させ、ついで対岸の福州へと攻撃の矛先をむけた。迎えうったのは、当時馬尾港に停泊していた 清朝の南洋艦隊。だが、近代的な装備をほこるフランス軍の前には手も足も出ず、南洋艦隊はたちまち全滅してしまった。 これが、清仏戦争で最大の激戦となった馬江沖の海戦と呼ばれる戦いである。馬江沖の勝利によって勢いに 乗ったフランス軍はその後、沿岸に上陸、さらに北上しようとしたが、やがて反撃に転じた清朝軍と 劉永福ひきいる黒旗軍の陸上部隊によって撃退された。ここは、その馬江沖の海戦を記念して開設された 歴史博物館で、内部には、当時の兵器や兵士の遺品など清仏戦争に関する資料が数多く展示されている。 また近くには、戦死した700名の将兵をまつった中仏海戦死難烈士陵墓がある。 福州の東方、ミン江の入口馬尾羅星塔の近くにある。

【関連史跡】航海術を教授するため左宗棠がつくった船政学堂跡が近くにある。

厳復墓

洋務運動

『天演論』を著した思想家・翻訳家、厳復の墓。『天演論』は、T・ハックスリーの『 進化と倫理』を 意訳して評釈を加えたもので、進化論の立場から国家としての適者生存を 説いたこの本は、 列強に蚕食されつつあった当時の中国の知識人に大きな衝撃を与えたという。福州市の郊外、 陽岐村にある。

于山・大士殿

辛亥革命

辛亥革命の福州奪回戦役の際、革命軍側の攻撃陣地と前敵総指揮部が設けられた場所。 1911年11月9日未明、革命軍は発砲を合図に総攻撃を開始、軍署と八旗兵が集まって いた山麓の旗下街を砲撃によって壊滅させ、清朝軍の手から福州を再び奪回した。なおその際、 政府軍の朴寿将軍は、大士殿の西側にある練丹井の近くで殺害されたという。市の中心部にある。

厦門

陳化成墓

阿片戦争

阿片戦争で戦死した江南提督陳化成の墓。川鼻仮条約に不満をもつイギリスは、 1842年、ヘンリー・ポッティンジャーを全権としてふたたび軍隊を北上させた。途中、 上海で清軍と交戦したが、この際、指揮していた江南提督陳化成が敵の挟撃にあい、 部下とともに戦死した。収容された遺体はその後、生まれ故郷の福建省同安に近い当所に葬られた。 市の郊外、金榜山の麓にある。

故里山砲台

洋務運動

清仏戦争後、厦門港を固める要塞として設置された砲台。現存する大砲はドイツ製のもので 砲身の長さ14メートル、重量60トンという巨大なもの。1896年の完成。市内南部の厦門大学の東南海辺にある。

厦門大学魯迅紀念館

国民革命

 三・一八事件に連座して北京を追われた魯迅は、1926年9月からここ厦門大学で 中国文学史の講義を担当していた。だが、学校当局のやり方に反発し、辞表を提出。 翌年1月には広州の中山大学へと移った。ここはその間、魯迅が起居していた建物で、 現在、魯迅記念館となっている。市内南部厦門大学の集美楼にある。

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