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国民革命時代別観光 国民革命

北京

北京大学紅楼

北京大学の旧校舎のひとつ。赤レンガ造りのため通称紅楼とも呼ばれる。辛亥革命後、中国共産党の創設者・李大ショウが ここで図書館主任をつとめていた。また同じころ毛沢東も李大ショウの下で働いていたことがあり、現在「毛主席在校工作処」 および「李大ショウ記念堂」として一般公開されている。ちなみに1919年の五四運動の際、天安門へむかう学生たちが デモ行進を開始したのはここの北側広場で、現在、民主広場と称されている。天安門の東北、中国美術館の近く。 市内東城区五四大街29号。

李大ショウ墓

中国共産党の創始者の一人、李大ショウの墓。1927年4月、奉天軍閥張作霖が支配する北京は、 熾烈な「赤狩り」の嵐が吹き荒れていた。こうした中、李大ショウら北京在住の共産党員は、東交民巷(天安門広場の東隣) にあるソ連大使館に身を隠していたが、強引に踏み込んだ張作霖側の官憲によって逮捕され、同月28日、 西交民巷(天安門広場の西隣)の監獄内で絞首刑に処された。処刑後、遺体は宣武門外の妙光閣浙寺に置かれていたが1933年、 共産党組織の奔走によって秘密裡に当地に埋葬された。墓前には李大ショウの塑像が置かれ、 背後にはトウ小平の揮亳になる記念碑が立っている。併設の陳列館には李大ショウに関する資料が展示されている。頤和園の西方、 海淀区の万安公墓内。333路のバスで万安公墓下車。

北京魯迅旧居(魯迅博物館)

魯迅が北京時代に住んだ家。魯迅は1924年5月に越してきてから、三・一八事件に連座して北京を追われるまで 2年間あまりをこの家ですごした。伝統的な四合院のつくりで、北側の小さな一室が魯迅の書斎兼寝室だったところ。中庭には、 魯迅が手ずから植えた3本のライラックの木があり、いまも春になるとかぐわしい香りがあたりに漂うという。 故居の東側に魯迅博物館が併設されており、2万点以上にのぼる関連資料の他、魯迅の蔵書1万3000冊余りが 納められている。市内西城区阜成門内西三条胡同21号にある。102、103、101、121路トロリーバスで阜成門下車。

三一八烈士墓

1926年3月18日、北京市内で日本の内政干渉に抗議する学生らがデモを行った際、時の権力者段祺瑞がこれを弾圧、 47人が虐殺され、200名以上が負傷するという事件がおこった。ここは、その三・一八事件で犠牲になった47名の遺体を葬った 陵園で、市内海淀区の円明園の西南隅「九州清宴」遺址にある。犠牲になった学生のなかには魯迅の教え子もおり、 魯迅は『花なきバラ』という文章のなかで「これはひとつの事件の結末ではない、発端なのだ」と怒りを表現している。 墓碑は高さ9メートル、六角形をした大理石で、正面には「三一八烈士公墓」の7字が刻まれている。 331路バス終点下車。または365路バスで円明園下車。

陶然亭公園

永定門西街にある陶然亭公園は1920年、周恩来と李大ショウの呼びかけによって当時の5つの急進的な政治団体が集まり、 『連合改造の宣言』を発表した場所として知られている。これは、翌年の中国共産党創設を準備する上で大きなステップと なった出来事であった。またこの陶然亭公園は戊戌維新のさい、康有為、梁啓超、譚嗣同らが変法の方策を練った場所でも ある。前門大街を南へ下って、永定門西街を突き当たったところにある。

長辛店二・七記念館

1923年2月27日、京漢線沿いの鉄道労働者らが、労働組合公認を要求してストライキに立ち上がった。その際、 直隷軍閥呉佩孚は、軍隊を差し向けてこれを弾圧、長辛店の労働者を含む死者40数人、負傷者200人を出す騒ぎと なった。ここは、その二・七虐殺事件を記念して建てられた歴史博物館で、事件に関する資料や犠牲者の遺品などが展示 してある。北京市西南郊外、豊台区長辛駅の西側の公園内にある。京漢線の列車に乗り、長辛店下車。

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