楊靖宇
東北抗日連軍を組織した共産党の闘士。
4年にわたる苦しいゲリラ戦の末、雪原に散る。
共産党員。革命家。1905年、河南省確山県の生まれで本名は馬尚徳。北京大学を卒業したあと中国共産党に入党。1929年、中国共産党の指令により、妻子を残して「満州」へと赴いた。やがて「満州国」が成立すると1936年、それまでバラバラに活動していた抗日グループをまとめあげ、東北抗日連軍として再編成、その総司令に就任した。農村地帯を地盤とする東北抗日連軍は、農民と協力して各地で神出鬼没のゲリラ戦を展開、掃討に当たる日本軍、満州国軍を悩ませた。
だが日本側は、農民と抗日連軍との連絡を絶つため、農民を集団部落に強制移住させる
など徹底的な掃滅作戦を開始。そのため抗日連軍は、しだいに雪深い山岳地帯に追いつめられ、やがて飢えと寒さから組織は壊滅状態に陥った。そして1940年2月23日、長白山のふもとの雪原を歩いていた楊靖宇は、警ら中の日本軍に見つかり銃撃戦の末、射殺された。その後、遺体を解剖してみたところ胃の中に残っていたのは、わずかな草根木皮だけだったという。
楊秀清
「天父下凡」を利用し、ナンバー2となった東王楊秀清。
天父エホバの託宣をかさに、天王洪秀全にとってかわろうとした。
太平天国の指導者の一人。東王。1820年、広西桂平県生まれ。早くに両親を失い、26歳で拝上帝会に入信するまで、炭焼きを職業としていたといわれる。48年、洪秀全の留守中、馮雲山が逮捕され、教団が壊滅の危機に瀕していた際、自らの身体に天父エホバが乗り移ったと称し、教団の引き締めをはかった。その功により、のちに天王洪秀全から東王の位を授けられ、天王に次ぐナンバー2の地位を確立した。
だが、天京遷都後、しだいに専横のふるまいが目立つようになり、天父エホバの託宣をかさに、本来なら天王にしか許されない「万歳」の称号を与えるよう迫ったり、あまつさえ天王をムチ打とうとしたこともあった。さらにみずから天王にとってかわろうとするにおよび、指導層の反感を買い、1856年、北王韋昌輝によって殺害された。