陳独秀
中国共産党創設者のひとり。
のちにトロツキストとして党より除名される。
中国共産党の創設者。北京大学教授。1879年、安徽省懐寧(今の安慶市)出身。6歳から私塾で学び、一時は科挙をめざしたが、23歳の時、反清宣伝を行ったかどで日本へ亡命。東京高等師範学校、早稲田大学などで学んだ。1906年、同盟会会員となり、帰国後、上海や安慶などで口語の新聞を発行し、民衆の間に反清革命を鼓吹した。辛亥革命にも参加したが、反袁闘争のさ中、再度日本へ亡命した。
15年に帰国し、民主と科学を謳い文句に封建思想を徹底的に批判する新雑誌『新青年』を上海で創刊、その後の新文化運動を準備した。17年、当時の北京大学学長、蔡元培から招かれ、文学部長に就任。19年の五四運動では、李大ショウとともに指導的役割をはたした。そのさい軍閥政府によって一時逮捕されたが、出獄後、上海に出てマルクス主義の研究と紹介につとめた。
21年7月、中国共産党の創立に参加、初代総書記に選ばれた。だが、27年の蒋介石による反革命クーデターのさい、右翼日和見主義者として総書記を解任され、29年にはトロツキストとして党から除名された。32年、国民党によって逮捕され、入獄。日中戦争勃発後の37年、釈放され、「(中共の遊撃軍は)遊んで撃たない」などともっぱら中共攻撃を繰り返した。42年、四川省江津で病死。
トウ小平
西南地区に革命根拠地を建設。
日本敗退後は、わい海戦役を指揮し、国共内戦の帰趨を決す。
革命家。政治家。1904年、四川省広安県に生まれる。16歳で、「勤工倹学」に参加し、フランスに渡った。20歳の時、現地で中国共産党に加入。26年、ソ連を回って帰国した後、ふう玉祥の下で軍事学校の教官などをつとめた。国民革命挫折後の29年、上海の共産党中央の指令を受け、ベトナムを通って広西地区へ潜入。百色起義、龍州起義を引き起こし、左右江革命根拠地を建設した。だが、31年、国民党軍に追われ、江西革命根拠地へと逃れた。
34年、長征に参加。途中、開催された遵義会議では、毛沢東を支持し、その権力掌握を助けた。37年、日中戦争が始まると政治委員として劉伯承とともに晋きろよ抗日根拠地に拠って抗日闘争を指揮。さらに国共内戦末期には、同じく劉伯承とともにわい海戦役を指揮し、国民党を台湾へと追い落とした。新中国成立後、文化大革命で批判されたが、復活。その後、「改革開放」政策を推し進め、中国の近代化を推し進めた。97年没。
張学良
中国革命の転換点となった西安事件を断行。
第2次国共合作を成立させた立役者。
東北軍総司令。西安事件の首謀者。1901年、遼寧省海城県生まれ。奉天軍閥張作霖の息子として、沈陽の陸軍士官学校卒業で学んだ後、奉天軍の要職を歴任。28年、爆殺された父の跡を継いで、東三省(満州)の支配者におさまった。同年末、いわゆる易幟革命を断行、国民党と結んだが、日本軍の反発を買い、やがて満州事変が勃発。配下の兵士とともに故郷を追われ、蒋介石の庇護の下、西安で共産党軍の討伐にあたっていた。だが、1936年12月12日、督戦に赴いた蒋介石を監禁(西安事件)、蒋介石に「連共抗日」(共産党と提携して抗日に向かうこと)要求を無理やりのませることに成功した。これによって第2次国共合作が実現、ここに抗日民族統一戦線が作られたのである。その後、張学良は自分の行動が、祖国を思うがゆえの誠意から出たことを示すため、上官に反逆した「罪人」として自から蒋介石に投降、その生涯を幽閉のうちに送った。
趙一曼
拷問にも屈しない不屈の意思。
抗日と革命に青春を捧げた女性革命家。
女性革命家。1905年、四川省宜賓県出身。21歳で中国共産党に加入。宜賓女子中学、中央軍事政治学校武漢分校、モスクワ中山大学で学び、 28年から江西、上海地区で地下工作に従事する。31年、満州事変が勃発すると東北地方へ赴き、抗日闘争に参加、33年春、ハルピンで起こった鉄道労働者ストライキを指導した。翌年、道北区委員会の書記として珠河に入り、当地の民衆とともに反満抗日のゲリラ活動を展開した。だが、36年の夏、戦闘中、日本軍に捕えられ、拷問を受けた。一度は看守らの助けで脱獄したが、再び捕えられ、31歳で処刑された。
張国トウ
長征中、毛沢東に対立した中共初期の指導者。
のちに国民党に転向し、共産党批判を繰り広げた。
革命家。中国共産党初期の指導者。1897年、江西省ひょうきょう県の地主の家に生まれる。北京大学在学中、北京学生連合会総幹事として五四運動を指導した。21年7月、上海で開催された中国共産党創立大会に北京代表として参加、組織部長に選出された。27年8月の南昌蜂起失敗後、モスクワに赴き、31年、帰国。その後、揚子江北岸のがくよかん根拠地に入り、中華ソビエト臨時政府副主席に選ばれた。だが、32年、蒋介石の第4次反「囲そう」戦争中、いちはやく根拠地を脱出、川陝省境に移動した。
35年6月、四川省西部で毛沢東らの長征軍と合流したが、毛らの北上抗日方針に反対し、朱徳らを人質に四川、チベット方面へと向かった。しかし、現地の少数民族軍から手痛い敗北を喫し、やむなく北上に同意した。
37年、延安で開かれた中央委員会で、その分派行動をけんせきされ、翌年、国民党地区へと逃走。国民党の下で共産党批判を繰り広げた。解放後は、香港に逃れ、さらにカナダへと移住し、79年、その生涯を終えた。
張作霖
馬賊出身の奉天系軍閥。
風雲に乗じて北京政界を牛耳った乱世の梟雄。
奉天軍閥。1875年、遼寧省海城県の出身。祖父の代に飢饉を避けて関内から移住してきたといわれる。16歳で馬賊に身を投じ、日露戦争の際、日本側のスパイとして働いた。その功により戦後、奉天政府部内で勢力を拡大。遼寧省守備隊隊長を足がかりに、辛亥革命後は奉天省長をへて東三省巡閲史の地位にまで昇り、事実上「満州」の支配者となった。
「満州」を得た張作霖は、やがて中央政界への進出を企図し、2度にわたる軍閥戦争を引き起こした。1924年、第2次奉直戦争で勝利を得た張作霖は、ついに北京政府の最高実力者の地位を手にいれた。だが、南方には蒋介石らの国民政府が割拠しており、26年7月には、反軍閥を旗印にした北伐軍が北上の途についた。張作霖は、これに対抗して孫伝芳や張宗昌ら他の軍閥とともに安国軍を組織、「反共討赤」をかかげ、各地で激しい戦いを繰り広げた。その後、張作霖は蒋介石の南京国民政府に対抗して北京に安国軍政府を樹立、自ら「中華民国陸海軍大元帥」を称したが、27年6月、北伐が再開されると、ひそかに北京を脱出。だが、途中、北伐の「満州」への波及をおそれた関東軍の手によって奉天近くの皇姑屯で列車ごと爆殺されてしまった。