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人物事典 さ行

左宗棠

南洋海軍を創設し、ロシアやフランスの侵略に第一線で抵抗した洋務派官僚。

清末の漢人官僚。政治家。1812年、湖南省湘陰県の生まれ。科挙にはついに及第しなかったが、 地理学や軍事学などの実務知識にかけては当代随一の人物だったといわれる。 1852年、太平天国の乱が勃発すると湖南巡撫の行政顧問としてこれと戦い、のち曾国藩の幕下に入り、 自ら楚軍を組織。英仏軍とともに太平軍の手から浙江地区を奪還した。66年、西洋式軍隊の優秀性を悟り、 福建省福州の馬尾に造船所を設立、「洋務派官僚」として軍備の近代化を推し進めた。 その後、陝甘総督となり、77年にはヤクブベクを指導者とする回教徒の反乱の鎮圧に成功した。だが、 新彊への進出を企図するロシアは、居留民保護を口実にイリ地方を占領し、反乱平定後もそのまま居座った。 これに対して左宗棠は、武力解決を主張したが、清廷にいれられず、北京へ召還された。 のちに清仏戦争が起こると、欽差大臣として福建へ派遣された。だが、彼の創設した南洋海軍はフランス軍の攻撃にあい壊滅。85年、敗戦の報を受けてまもなく、失意のうちに病没した。

西太后

清朝末期、3度にわたる垂簾政治を行った咸豊帝の妃。光緒帝の政治改革を阻み、清朝の内部崩壊を早めた。

清朝第9代皇帝咸豊帝の妃。安徽省の地方官恵徴の子として1835年、山西省路安府(長治市)に生まれた。幼名を蘭児といい、容色に優れ、頭が良く、 また歌がとても上手な娘だったという。17歳の時、宮中に召し出され、咸豊帝の寵愛を受ける。やがて1856年、咸豊帝にとって始めての男児、 載淳を出産、その功により貴妃の位を授けられた。やがて権力への野心を抱きはじめた西太后は、咸豊帝の弟である恭親王奕訴と謀り、 61年、宮廷クーデターを実行。載淳を皇帝(同治帝)に擁立し、自らは摂政として垂簾のうしろで東太后とともに政務を執るようになった。 1873年、同治帝が17歳になると12年間にわたる垂簾政治は幕を閉じる。ところが、翌年、同治帝が急逝。西太后は、 4歳の幼い載テン(光緒帝)をむりや即位させると、再び垂簾政治に乗り出した。14年後の89年、光緒帝が親政を始め、 第2次垂簾政治は終了した。1898年、康有為の建策をいれた光緒帝は、急進的な政治改革に着手した。だが、 これに反発した西太后は、改革派を一掃。光緒帝を宮中のえい台とよばれる池の小島に幽閉した(戊戌政変)。その後、 義和団の乱が起こると、反乱軍の力を頼んで列強に宣戦布告。敗れると西安に出奔するとともに「中華の物力を量り、列強の歓心を結べ」という方針のもと、 屈辱的な辛丑条約を締結し、中国を半植民地状態へと陥れた。1908年、執拗な監視を怠らなかった光緒帝と相前後して没した。73歳であった。

石達開

翼王として太平天国軍を指揮。天京の惨劇後は、西南部を転戦した伝説の名将。

太平天国の指導者。翼王。1831年、広西貴県出身。実家は客家の地主。10代後半で拝上帝会に加入。金田起義の際は信者1000余名を率いて参加した。 50年12月、永安で他の4人の指導者とともに翼王の称号を受ける。天京遷都後、西征軍の総司令官として武漢を奪回、 さらに江南大営を打ち破った。だが、56年、指導部で内こう(天京の惨劇)が起こると、天京を脱出。20万の兵を率いて広西、 貴州、雲南など西南部を転戦した。63年、四川省の大渡河付近で清軍に包囲されると、「我が命と引き替えに将兵の許しを乞う」旨の文書を四川総督に送り、 自ら投降。成都に護送され、そこで刑死した。

孫文

辛亥革命によって王朝政治に終止符を打った革命家。中国革命の先覚者として国父とたたえられている。

革命家、社会理論家、辛亥革命の最高指導者。欧米では孫逸仙、中国では孫中山として知られている。1866年、広東省香山県(現在の中山県) 翠亨村の貧しい農家の次男として生まれる。14歳の時、ハワイで成功した兄のもとに赴き、西洋式の教育を受けた。92年、香港の西医書院を卒業後、 マカオや広州で開業医となったが、社会改革への情熱もだしがたく94年、天津に赴き李鴻章に上書を提出、政治改革を建策した。だが、 それが無視されるや再びハワイへ渡り、現地の華僑を説いて清朝打倒の秘密結社興中会を組織。本格的な革命活動を開始した。翌年10月、 早くも広州で最初の挙兵を試みたが、失敗。日本、そしてイギリスへと亡命した。ロンドン滞在中、清国公使館にとらえられたが、 西医書院時代の恩師カントリー博士に救われ、その時の体験をつづった『ロンドン被難記』によって革命家孫文の名は一躍世に知られるようになった。 1905年、日本へ戻った際、大陸浪人宮崎滔天らのあっせんで華興会の黄興らと会談、新たに中国同盟会を結成することとなり、 その総理に選ばれた。1911年10月10日、武昌で辛亥革命が勃発すると、当時アメリカ滞在中だったが、列強の支援をとりつけるため欧米を回って帰国。 帰国後は、臨時大総統におされ、南京に中華民国臨時政府を樹立した。だが、袁世凱の策略にかかり、やがて政権を追放された。 その後、軍閥混戦のなか、しだいに共産主義に接近。反帝反軍閥の戦いを押し進めるため、1924年、第1次国共合作を成立させた。 その後、国民革命の旗印を掲げ、北伐を企図したが、第2次奉直戦争後の事態収集に北京へと赴く途中、病に倒れ、1925年、 その波乱に満ちた69年の生涯を閉じた。臨終の言葉は、「革命未だならず」であった。

曾国藩

太平天国を鎮圧した漢人官僚。洋務運動を推進し、近代産業の育成にも尽力。

太平天国鎮圧に功のあった清朝の官僚で、洋務運動の推進者。1811年、湖南省湘郷の出身。28歳で進士となり、内閣学士、 礼部右侍郎(文部次官)を歴任した。1852年、母の喪に服するため、郷里に帰省中、太平天国の乱が勃発。朝廷から湖南防衛の命令を受け、 郷里の読書人に呼びかけ、義勇軍(湘軍)を組織、太平天国軍の鎮圧にあたった。当初、戦線は一進一退を繰り返し、曾は何度か敗戦の責任を感じて自殺を試みたが、 そのたびに部下に押しとどめられたという。太平天国壊滅後は、両江総督として、 また一時直隷総督として西洋の軍事技術の導入と近代産業育成につとめ、安慶に兵器工場をつくるなど、洋務運動の最初の推進者となった。1872年、南京で病死。

宋教仁

議会政治で袁世凱の野心を打ち砕こうとした青年政治家。勝利を前にテロリストの凶弾に倒れる。

革命家、政治家。1882年、湖南省桃源県の出身。22歳の時、黄興らと革命団体興中会を創設。長沙で蜂起をはかったが失敗し、 日本へ亡命した。日本では、法政大学や早稲田大学で学ぶ一方、「二十世紀の支那」誌を発行。また1905年、 中国同盟会が成立すると司法部検事長に選ばれ、同盟会機関誌「民報」に寄稿して論陣をはった。1907年には、中国東北地方へわたり、 同盟会遼東支部の設立に尽力。その間、『間島問題』を著わし、日本の同地域(中国と朝鮮の境界地域)への侵略意図を暴露した。 辛亥革命後は、南京臨時政府の法制院総裁となったが、実権が袁世凱に移るとかつての同盟会を中心に小政党を糾合。新たに国民党を創設し、 その指導者となった。やがて開催された中国初の国会選挙では、圧倒的な議席数を獲得、その力でもって袁世凱をけん制しようとした。 だが、1913年3月、上海駅頭で袁世凱の刺客によって暗殺された。

蒋介石

国民党の最高指導者として軍閥割拠の中国を再統一。国共内戦に破れ、台湾に落ちのびる。

 

軍人、政治家。国民政府総統。1887年、浙江省奉化県の塩商人の家に生まれる。6歳で私塾に入り、 伝統的な儒教経典にもとづく教育を受けた。保定軍官学校の前身である通国陸軍速成学堂をへて、1908年、日本の陸軍士官学校に留学。 同郷の革命家で青幇の頭目でもある陳其美と知り合い、その紹介で中国同盟会に加入した。11年、辛亥革命が勃発すると急きょ帰国、 革命軍の杭州および上海占領を指揮した。袁世凱の政権簒奪後、革命派とともに日本へ亡命していたが、 やがてその軍事的才能を孫文に認められ、広州の中華民国軍政府の下で、広東軍総司令部作戦課主任となる。またこのころ、 上海に創設された証券物品交易所の活動に参加し、革命資金の調達にあたっていたといわれる。 1924年、黄埔軍官学校の校長に就任。その軍事力を背景に国民党内部でしだいに頭角を現わす。 26年には、北伐軍総司令官に任命されたが、国民党左派および共産党とのみぞが深まると翌年4月、 上海でクーデターを引き起こし、共産党および左派を武力弾圧。南京に右派からなる独自の国民政府を樹立した。 だが、36年12月、西北部で抵抗を続けていた共産党の掃滅作戦の督戦に西安に赴いた際、腹心の部下の張学良から監禁されるという西安事件が発生。 共産党との一致抗日を迫られ、やむなく抗日戦を決意。再び共産党と合作し日本との全面戦争に踏み切った。 しかし、抗日戦争終了後、国共内戦が勃発すると共産党軍の猛攻を受け、49年、台湾へと逃れた。75年、死去。

周恩来

学生運動家上がりの革命家。巧みな外交手腕で中国革命を勝利に導く。

革命家。政治家。1898年、江蘇省淮安の地主の家庭に生まれ、15歳で天津南開学校に入学。さらに1917年、日本に留学し、 早稲田大学などで聴講生として学ぶ。1919年、五四運動が起こるやただちに帰国して、天津における学生運動を指導。 急進的な学生団体「覚悟社」を組織した。1920年、留学生として渡仏。22年、パリで結成された中国共産党欧州支部の責任者となる。 帰国後は、黄埔軍官学校の政治部主任に抜擢され、多くの革命武装勢力の育成にあたった。27年3月、上海で労働者の武装蜂起を指導。 さらに蒋介石による反革命クーデター後は、南昌に赴き、朱徳らといわゆる八.一南昌暴動を引き起こした。 その後、モスクワを経由して上海で地下工作に従事していたが、31年末、毛沢東らが創設した江西ソビエト区に入り、 国民党の包囲戦争に対する戦闘を指導した。34年、長征に参加。途中で開催された遵義会議の席上、毛沢東を支持し、 党内における毛沢東の指導権確立を助けた。36年、張学良が蒋介石を監禁した西安事変に際しては、中共代表として仲裁に赴き、 内戦停止と抗日民族統一戦線の結成に力を尽くした。抗日戦争中は、中共代表として国民政府の臨時首都、重慶に駐在し、 国共関係の処理にあたった。新中国成立後は、国務院総理に任じられ、文化大革命の際は、混乱を最小限に抑えるよう指導層内部の調整に奔走した。 1976年、民衆に惜しまれながら北京で死去した。

朱徳

辛亥革命以来の歴戦の軍人。毛沢東とともに中国革命に邁進。

 

革命家、軍人。1886年、四川省儀隴県の貧農の家庭に生まれる。1909年、雲南講武学堂に入学し、同年、中国同盟会に入会した。 辛亥革命では、蔡鍔の部下として反袁世凱闘争(第3革命)に活躍した。その後、四川省の軍閥から高位厚禄をもって迎えられたが、 五四運動の影響で、その地位をなげうって渡欧。周恩来らと交わり、中国共産党に入党した。帰国後、共産党の指示の下、 南昌の公安局長に就任。1927年の南昌暴動では、周恩来らとともに蜂起に参加した。蜂起失敗後、部隊を率いて南下し、 翌年5月、井崗山の毛沢東部隊と合流、紅軍第4軍を創設し、総司令官となった。以後、朱徳は毛沢東の信頼厚い無二の片腕として、 中国の解放事業に生涯をささげた。中華人民共和国成立後は、副主席となり、国家の要職についた。 文化大革命時に紅衛兵から批判されたこともあったが、その後、名誉は回復された。1976年、死去。

秋瑾

辛亥革命前夜に咲いた「革命の花」。憂国の至情を胸に従容として処刑台に散る。

清朝末期の女性革命家。競雄と号し、また鑑湖女侠とも称した。1875年、福建省のアモイの出身。少女時代から男まさりの性格で、 杜甫らの詩文に親しむとともに武侠小説や武術を好んだという。16歳のとき本籍地である浙江省紹興に帰郷し、 18歳で湖南省の官僚の王廷釣と結婚。やがて赴任した夫にしたがって北京に居を構えた。だが、義和団の乱後の中国の衰世を憂い、 28歳で家庭を捨て、日本へ留学。光復会、さらに同盟会に参加し、反清革命家となる。1年後の1905年、 日本の「清国留学生取締規則」に憤激して帰国、女学校の教師をした後、上海で「中国女報」を発刊するなど、 女権拡張運動および革命運動に挺身した。翌年、故郷の紹興に戻り、革命派の拠点、大通学堂の校長に就任。 各地の民間秘密結社と連絡をとりながら、同志の徐錫麟とともに反清武装蜂起の準備を進めた。だが、1907年徐錫麟が安慶で蜂起に失敗すると、 共同蜂起の計画がもれ、まもなく弾圧をうけ、処刑された。そのさい「秋雨秋風人を愁殺す」という句を残したとされる。享年33歳。

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