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人物事典 ら行

李大ショウ

中国共産主義運動初期の傑出した指導者。
陳独秀とともに中国共産党を創設した。

中国共産党創設者のひとり。北京大学教授。1889年、河北省楽亭県の生まれ。地元の永平府中学を卒業後、天津の北洋法政専門学校で学び、さらに1913年、日本の早稲田大学に留学した。15年、日本の21ヵ条要求に反対する留日学生の闘争に参加。やがて帰国し、北京大学の図書館主任兼経済学教授となる。その前後、陳独秀らの『新青年』の編集に参加、また『毎週評論』を創刊して、マルクス主義やロシア革命の紹介につとめた。
 21年7月、コミンテルン代表ヴォイチンスキーの働きかけを受け、上海で中国共産党を創設。陳独秀とともに共産主義者の間で「南陳(独秀)、北李(大ショウ)」と称された。国共合作にあたっては指導的な役割を演じ、改組なった国民党において中央執行委員に選ばれた。
 その後、北京を中心に反帝反軍閥闘争を推し進めていたが、26年の3.18事件の後、当局の追及を逃れ、ソ連大使館に隠れた。だが、翌年4月、張作霖が大々的な「赤狩り」を指示、大使館に踏み込んだ官憲によって逮捕され、西交民巷の監獄で秘密裡に絞殺された。38歳であった。

李鴻章

太平天国鎮圧で功を挙げた漢人官僚。
洋務運動を推進する一方、軟弱外交により清朝を滅亡の淵へと追いやる。

清末の官僚。外交家。政治家。1823年、安徽省合肥に生まれ、24歳で進士に合格。エリート官僚としての道を歩み出す。太平天国の乱が勃発すると曾国藩の幕下で、わい軍を組織。イギリス軍とフランス軍、そしてイギリス軍人ゴードン率いる外人雇兵部隊常勝軍の支援を得て揚子江をくだり、太平天国軍を粉砕した。太平天国滅亡後、その功により伯爵に封ぜられ、地方長官として最高の地位である直隷総督にまでのぼりつめた。
 その間、洋務派官僚として西洋の技術を積極的に導入、銃砲、弾薬工場などを設立する一方、北洋海軍の編成にも着手した。陸上のわい軍と海上の北洋軍を支配した李鴻章の権勢はその頂点に達し、以後、重要な外交問題はすべて彼の手にゆだねられるようになった。
 だが、李鴻章は、一貫して屈辱外交、軟弱外交を繰り返し、その結果、中国の外交的地位は凋落の一途をたどる。やがて1895年、日清戦争に敗北するとその責任をとらされ失脚。1900年、義和団事件が起こると再び、直隷総督に復帰したが、翌年、中国を半植民地状態においた「辛丑条約」を締結した後、急逝した。

林則徐

外国商人からアヘンを没収、強制的に焼却処分。
愛国的で清廉な政治を貫き、人々の人望を集めた。

清朝の官僚、政治家。1785年、福建省福州生まれ。25歳で進士となり、江蘇巡撫、湖広総督を歴任。清廉な政治で民衆の人望を集めた。やがてアヘン問題が持ち上がると徹底した厳禁論を主張、その上奏文が時の道光帝の目に止まり、欽差大臣として広州に派遣された。林則徐は、外国人居留地を実力で封鎖し、外国商人所有のアヘンの引き渡しに成功、強制的に焼却処分した。
 ところが、それを契機にアヘン戦争が勃発すると、清朝は開戦の責任を林則徐になすりつけ、一切の官職を奪い、新彊のイリへ追放した。その後、許されて陜西巡撫、雲貴総督などに返り咲いたが、1850年、太平天国鎮圧のため広西に派遣される途中、病死した。なお、アヘン問題処理のため、林則徐が友人の魏源らに編纂させたヨーロッパ事情の研究書「海国図志」は、幕末の日本へも伝わり、明治維新にも大きな刺激を与えたといわれる。

李秀成

天京の惨劇後、彗星のごとく現われ、
瓦壊の淵にあった太平天国を救った若き将軍。

太平天国後期の傑出した将軍の一人。忠王。1823年、広西藤県の貧農出身。26歳で拝上帝会に加入し、金田起義にも一兵卒として参加した。天京の惨劇後、洪秀全の信任を得て、石達開らに代わり太平天国軍を指揮。58年夏には英王陳玉成とともに清軍の包囲を解き、天京を滅亡の危機から救った。その功により翌年、忠王に封ぜられる。60年以後は、江せつ地方に進出し、上海をめぐって英仏軍や常勝軍と戦った。64年春、形勢が急変すると、天京にとって返し、洪秀全に遷都を勧めたが、いれられないまま、7月には天京が陥落。やがて李秀成も捕えられ、同年8月、刑死した。獄中、「忠王李秀成自述」を残した。英国人旅行家リンドレー著「太平天国」にその詳しい姿が記されている。

魯迅

文学を武器に精神の革命を推進。
近代中国文学の父で中国革命の陰の立役者。

文学者。中国革命を文化面から押し進めた革命的作家。本名、周樹人。1881年、浙江省紹興の没落地主の家に生まれた。17歳で南京の軍関係の学校で学び、21歳の時、日本へ留学。仙台医学専門学校で学んだが、やがて「肉体の病より社会の病を治療したい」と文学に転向。1909年、帰郷し、しばらく教師をしていたが、辛亥革命により中華民国臨時政府が成立すると、教育部(文部省にあたる)に招かれ、政府の役人となる。
 やがて1918年、新文化運動が沸き起こると、陳独秀らが発行する『新青年』に口語小説『狂人日記』を発表。文学による社会革命を開始した。26年、北京で発生した三.一八反帝愛国運動に連座したかどで、北洋軍閥政府を追放され、厦門大学の教授をへて、当時、国民革命の中心だった広州の中山大学の教授となった。だが、翌年4月、蒋介石による反革命クーデターが起こると、抗議辞職。上海に居を構え、同年、許広平と結婚した。
 30年、中国左翼作家連盟を結成、国民党のたびかさなる圧迫をはねのけ、多くの論敵とたたかいながら、舌鋒鋭くマルクス主義にもとづく革新思想の普及につとめた。36年の左翼作家連盟解散後も、「民族革命戦争的大衆文学」を主張し、文化面での抗日民族統一戦線の結成に尽力した。晩年も病苦をおして執筆をつづけたが、36年10月、上海で死去した。主な作品には、『狂人日記』の他、『阿Q正伝』『吶喊』『野草』『華盖集』などがある。

劉伯承

イ族の族長と血盟を結び、長征軍を救った劉伯承。
ワイ海戦役に勝利し、共産党による中国統一を実現。

革命家。軍人。1892年、四川省開県出身。1911年、辛亥革命に学生軍の一員として参加した後、重慶の軍政府将校学堂に入学。14年に孫文の中華革命党に加入し、以後、軍閥打倒の戦いを繰り広げる。やがてマルクス主義に接触するようになり、26年、中国共産党に加入。北伐戦争の際は、朱徳らとともに四川軍閥を撃退し、国民革命軍の北上に道を開いた。27年夏の南昌起義に参加した後、ソ連に赴き、モスクワの軍事学校で訓練を受ける。34年に江西省の中央革命根拠地に入り、紅軍学校校長となる。35年、毛沢東らとともに長征に参加。途中、イ族地区を抜ける際、族長小葉丹と血盟の義を結び、長征軍を無事通過させたことは有名な逸話である。
 抗日戦争勃発後は、政治委員のトウ小平らと華北地区でゲリラ戦を展開した。国共内戦末期、わい海戦役を指揮。国民党軍55万人あまりを壊走させ、共産党の勝利を確実なものにした。南京解放後も西南地区で国民党軍の掃討戦にあたり、50年、北京に戻り、軍事委員会副主席に就任。86年、死去。

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