中国旅行が10倍面白くなる! 中国近現代史に関する
歴史スポット200を集めた歴史ファン待望の観光情報サイト
Google
トップ | 時代別観光 | 地域別観光 | 歴史解説 | 人物事典 | コンセプト | 参考文献 |

人物事典 か行

川島芳子

清朝復辟を夢見、謀略工作に従事。
「東洋のジャンヌダルク」として「満州国」建国に協力した元清朝王女。

 元清朝の皇族。満州事変前後に活躍した女性スパイ。1907年、清朝の筆頭皇族粛親王善耆の第16王女として北京に生まれた。原名、金璧輝。
 6歳のとき、粛親王と親交を結んでいた大陸浪人川島浪速の養女として来日。東京の跡見高等女学校や長野県の松本高等女学校などに通った。当時から奔放不羈な性格で、馬に乗って通学したり、気が変わるとふらりと帰ったりしたという。
21歳の時、旅順で蒙古独立運動家パプチャップ将軍の遺児カンジュルチャップと結婚。しかしまもなく離婚し、上海の日本側特務機関の下で、スパイとして働くようになる。1931年、満州事変が発生すると、元清朝皇后婉容の「満州」への脱出工作に協力。さらに翌年1月28日、日本人僧侶襲撃事件を演出し、第1次上海事変を引き起こすなど、一連の謀略工作に従事した。
 満州国建国後は、安国軍総司令官の肩書きで熱河侵攻作戦に従軍。「東洋のジャンヌダルク」として日本のマスコミから一躍スターの座に祭り上げられた。
 だが、あまりに勝手気ままなそのふるまいにやがて日本軍からも持て余されるようになる。その後、東京でイトウ・ハンニという怪しげな相場師と同棲したり、再び中国へ舞い戻っては「北平満州同郷会総裁」「留日学生会総裁」などを自称していたが、1945年、日本が降伏すると国民党特務の手によって逮捕され、1948年奸漢として処刑された。もっとも処刑されたのは替え玉で、本人は生き延びたというまことしやかな説も流布しているが、真相は定かではない。

黄興

革命結社華興会の指導者。
孫文の盟友として辛亥革命を推進。

武昌起義で自ら防衛戦の最前線に立つ。 革命家。孫文と並ぶ辛亥革命の指導者。1874年、湖南省長沙に生まれる。武昌の両湖書院を卒業後、唐才常の自立軍蜂起に参加。失敗後、難を逃れて日本へ留学、拒俄運動(ロシアを満州から撤兵させようとした学生運動)などで活躍した。やがて帰国し、宋教仁、陳天華ら湖南省出身者からなる華興会を創設。清朝打倒の革命活動を開始した。1905年、大陸浪人宮崎滔天のあっせんで孫文と会談。孫文の興中会、黄興の華興会、そして浙江省出身者でつくる光復会をあわせた統一的な革命組織、中国同盟会を創設することに同意。孫文と並ぶ革命派の最高指導者となる。
 その後、広西方面で何度か武装蜂起を引き起こしたが、いずれも失敗。さらに1911年4月、広州で大規模な蜂起(黄花こう起義)を指導したが、再び失敗し、香港へと逃れた。だが、同年10月、武昌起義が勃発するとただちにかけつけ、戦時総司令として武昌防衛にあたった。翌1912年1月、南京に中華民国臨時政府が成立すると陸軍総長に就任。袁世凱による政権簒奪後もしばらく要職にとどまっていたが、袁が反動化するのを見るや、憤然として辞職。やがて起こった第2革命では、反袁闘争の急尖鋒に立った。しかし、第2革命に失敗すると意見の相違から孫文とたもとを分かち、アメリカに亡命。1916年、袁世凱が死去すると帰国の途についたが、過労のため上海でその生涯を終えた。

洪秀全

中国近代史上最大の農民反乱の指導者。
民族主義と原始的な共産主義を提唱し、清朝と西洋列強の支配に挑戦。

太平天国の創始者。1814年、広東省花県の客家に生まれる。7歳で、村の私塾に入り、秀才の評判を得る。だが、25歳の時、3度目の科挙に失敗し、熱病を病んだ際、天の父から地上の支配者としての権威を授けられる幻想を見た。それがきっかけとなり、43年、拝上帝会という宗教結社を創設。同郷の馮雲山とともに、広西の桂平県を根拠地として布教活動を開始した。やがて、信者は数万人にまでふくれあがったが、孔子像すら偶像として破壊する拝上帝会に対する地主や官憲からの迫害もいっそう激しくなった。その間、広州にアメリカ人宣教師ロバーツを訪ね、そこでキリスト教の教義や儀式を正式に学んだこともあったが、その思想に危険なものを見たロバーツは洗礼を授けなかったという。
 その後、桂平県に戻った洪秀全は1851年、数万人の信者を前に太平天国の建国を宣言、自ら天王と称し、清朝を倒すべく武装闘争に立ち上がった。北上した太平軍は、2年後には、南京を占領し、天京と改名。長江下流域を中心とする広大な地域を支配下に置いた。その後、洪秀全は政治の一線から身を引き、天王府の奥深く、瞑想的な生活に入ったといわれる。だが、56年、指導部内で内紛が起こり、国運はしだいに衰退に向かう。一時、李秀成や陳玉成といった若い将軍が陣頭指揮に立ち、勢いを盛り返したように見えたものの、1864年、天京は清朝と列強の連合軍の挟撃にあい、ついに陥落する。洪秀全が栄養失調からくる病のため、死亡したのは、そのわずか1ヵ月ほど前であった。

康有為

立憲君主制をめざし戊戌維新を推し進めた清朝末期の社会改革家。
辛亥革命後も清朝復辟を唱え、儒教にもとづいた理想国家建設を夢見る。

清末の思想家。社会改革家。1858年、広東省南海県の士大夫の家庭に生まれる。儒教の素養に西洋の自然科学を加味した自由闊達な思想を育み、30代前半には儒教経典に大胆な批判を加えた『新学偽経考』、『孔子改制考』を著わすなど、すでに少壮気鋭の学者として名声を得ていた。
 日清戦争が終結した1895年、科挙のため北京へ上京。その際、受験生1300人の署名を集め、講和反対、戦争継続を皇帝に直訴した。これが有名な「公車上書事件」である。
 同年、科挙に合格。進士となり、1898年、時の皇帝光緒帝とともに日本の明治維新をモデルにした戊戌維新を開始した。だが、西太后ら保守派の弾圧により、わずか100日ほどで失脚、海外へ亡命した。
 その後、日本、カナダ、インド、ヨーロッパ、そしてアメリカと世界中を流浪しながらも立憲君主制を主張、弟子の梁啓超らとともに保皇会を結成し、孫文の革命党と激しい論戦を展開した。さらに辛亥革命後も清朝復辟を唱え、1917年の張勲による復辟事件にも裏で画策したといわれる。晩年は孔教会を設立して儒教の国教化をめざしたが、1927年3月、70歳で死去した。

Copyright(C) 1998 SHINICHIROU TAKAHASHI All Rights Reserved.