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人物事典 あ行

石原莞爾

独自の世界最終戦論にもとづき満州事変を構想。
「満州国」建国の推進者。

軍人。満州事変の画策者。1889年、山形県鶴岡出身。1918年、陸軍大学を優秀な成績で卒業、日本陸軍はじまって以来の奇才とうたわれた。陸大卒業後、中国勤務およびドイツ留学を経験。その間、日蓮宗の教義と独特な戦争史観をミックスした特異な世界最終戦論を練り上げたといわれる。
 1928年、関東軍参謀として「満州」へ赴任。やがて満州および内蒙古を日本の支配下におく「満蒙領有構想」を発表し、同僚の板垣征四郎とともに満州事変を引き起こした。ジュネーブで開かれた満州事変を討議する国際連盟会議には、外相松岡洋右の随員として参加したが、そのさい石原はぬけぬけと中国服を着て出席したという。
 「満州国」建国後は帰国して陸軍参謀本部付となり作戦課長、作戦部長などを歴任。だが東条英機と反目し41年、ついに軍を追われた。その後、立命館大学国防研究所所長などをしていたがまもなく帰郷、晴耕雨読の信仰生活を送った。
 戦後、酒田で開かれた東京裁判臨時法廷では裁判の欺瞞性を激しく攻撃し、「自分を戦犯にしろ」と訴えたが戦犯には指定されず、1949年8月、60歳の生涯を終えた。

袁世凱

辛亥革命の成果を横取りし、中華民国大総統となった袁世凱。
帝制復活を宣言し、「袁王朝」を夢見た。

清末の政治家。軍人。中華民国初代大総統。1859年、河南省項城県の官僚の家に生まれる。82年、親戚のつてを頼って投じたわい軍とともに朝鮮に赴き、壬午の変および甲申の変の処理にあたった。そこで発揮した政治的軍事的手腕が李鴻章の目にとまり、総理交渉通商事宜としてそのままソウルに駐在。朝鮮の内治に干渉し、これを属国化した。
 日清戦争敗北後、天津で新建陸軍を組織した袁世凱は、これを政治的基盤として中央政界に進出。さらに戊じゅつ維新の際、改革派を裏切り、保守派のクーデターを助けたことから西太后の信任を得、1901年、漢人官僚としては最高の地位である直隷総督兼北洋大臣となった。その後、これに反発した満州人官僚によって一時下野させられたが、1911年、辛亥革命が勃発すると乞われて再び出廷。清朝の実権を握る内閣総理大臣として革命軍の鎮圧にあたった。だが、袁世凱は列強の支援を背景に革命軍と交渉、清朝皇帝の退位と引き換えに孫文から中華民国臨時大総統の地位を受け継ぐことに成功した。
 その後、袁世凱は孫文ら革命派との当初の約束を反故にし、しだいに反動化していく。やがて16年、帝制復活を宣言すると、それに反対する革命派が各地で決起。さらに列強も帝制取消を勧告するにおよんで、わずか3ヵ月ほどで「袁世凱王朝」は終焉した。その直後、打ち続く反袁闘争の中、失意のうちに病死した。

エドガー・スノー

陜西省北部の赤色地帯へ単身潜入。
ルポルタージュ『中国の赤い星』を著し、
中国共産党の実態を世界に知らしめた米人ジャーナリスト。

アメリカのジャーナリスト。歴史的なルポルタージュ『中国の赤い星』の著者。1905年、米国ミズーリ州カンザスシティ生まれ。コロンビア大学で新聞学を学んだ後、世界一周の旅に出る。途中、立ちよった上海で中国に魅了され、やがて上海を拠点にアメリカの通信社や新聞社の特派員として中国およびアジア報道にたずさわるようになる。33年、北京に拠点を移し、燕京大学で新聞学を講義するかたわらジャーナリストとして取材執筆活動を行う。
 36年7月、宋慶齢の紹介状を持って中国共産党の根拠地陜西省保安(現在の志丹)に潜入。毛沢東らとの会見に成功した。翌年、その時の体験をまとめたルポルタージュ『中国の赤い星』を出版。中国共産党の実態とその主張を全世界に紹介した。
 その後、生産者共同組合の一種「工業合作社」運動に参加。41年、太平洋戦争が勃発し、アメリカに引き上げた後もアメリカで「合作社」推進委員会を組織し、中国革命に同情的な人々とともに中国革命を支援した。だが、戦後に吹き荒れたマッカーシズム旋風により、「左派」として迫害を受け、59年にはスイスへ引っ越した。晩年には、毛沢東の密使として中米和解にも尽力したが、72年、病没した。その遺骨の一部は、遺言によって北京大学構内に葬られた。

汪兆銘

孫文の後継者を自認した汪兆銘。
蒋介石との権力闘争に敗れ、日本に投降。

中華民国時代の政治家。日中戦争中の南京国民政府の主席。汪精衛ともいう。1883年、広東省広州の生まれ。20歳で日本の法政大学に留学し、中国同盟会に加入。党の機関紙「民報」の編集に携わった。1910年、清の摂政醇親王を暗殺しようと企てたが、未遂に終わり、死刑を宣告される。
 翌年、辛亥革命が成功すると下獄し、やがて孫文の広東国民政府に参加、孫文死後は、その後継者として国民政府主席となった。だが、軍事力をバックに台頭してきた蒋介石と対立。北伐戦争中の27年には国民党左派として共産党とともに武漢政府を設立し、蒋介石の南京国民政府に対抗した。しかし、まもなく武漢政府を解消し、南京政府に合流、その後、国民政府部内で派閥抗争に明け暮れた。
 日中戦争勃発後の38年、国民党副総裁となったが、同年末、日本軍の和平工作に誘われ、重慶を脱出、ベトナムのハノイで「艶電」を発し、日本に投降した。40年3月、日本軍の後押しで樹立された南京国民政府の主席に就任したが、44年11月、名古屋の病院で客死した。

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